どこかで聞いたような・・・

コロナ問題が様々な形で論じられて久しくなる。日本では収束の兆しがまだ見えない。
コロナ問題に対する考え方、取り組姿勢も各国でかなり異なっている。
一つどうも気になる動きがある。スエーデンなどでなどで取られている「集団免疫」
による封じ込めの方法である。医学的(疫学的)知識は全く持ち合わせていないので
詳しいことはわからないが、住民の一定割合以上感染すると、それ以上感染者は増えない、
と言うものらしい。当然感染者が増えるのだから、死者数も増えるわけだが、
抵抗力が弱い人、高齢者、病弱者などから淘汰されることになる。治療に向けられる
リソースが限られている限り、これから社会に貢献できると思われる人を助け、そうでない人は
お引き取り願おうと言う発想である。スエーデンだけでなく、類似した考えを持つ国もあるし、
患者を症状の重度によって選別し、段階的な治療を行う「トリアージ」も最終段階では
高齢者の命の引き換えに、若者を助けざるを得ない場面が生じる。

究極の場面ではこうした絶望的な選択も避けられないことがあるが、怖いのは
「世の中に貢献できない」、「社会の負担になる人」は死んでもいいのだと言う風潮になることだ。
この考えはどこかで聞いたことがある。

2016年に相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件である(16人死亡)。
死刑囚は「世間の迷惑になり、生産性のない人間は生きる資格がない。従って、自分は
それらを排除し、正しいことを行なった」との主張した言われている。
社会はその惨劇に戦慄し、犯人を憎み、罵倒した。

かつてヒットラーは障害者、ユダヤ人は社会に貢献できず害になると主張し、大量虐殺をした。

どちらも悍ましい事件で、一般人からするととんでもない悪事だが、本当にそうだと言い切れるか。
我々の心のどこかに、「生産性のない人間は除去されても良い」と言った悪魔の正義感はないか。

相模原の死刑囚へのシンパ、ヒットラーの信望者、そして今回の命の選択への賛同者がいることを
考えると、今一度選ぶ命と選ばれる命について原点に立ち還る必要がありそうだ。

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